PLAY TRUE 2020

PLAY TRUE 2020

© Yuki Saito

Truth in Sport

人としてどうあるべきか

11歳でテニスを始め、これまでいろいろな人と出会い、その人それぞれの素晴らしいところにたくさん触れてきました。プレースタイルにしても、人としても、いろいろな人の良いところを少しずつ自分のものにして、それを全部集めたのが自分でありたいと思っています。

私は小さい頃からずっと、何をするにしても、どうせやるならみんなと同じ条件でやりたいと思ってきました。たとえば小学校の頃、先生から「走って転んだらケガをするかもしれないから、リレーに出すことはできません」と言われたことがありました。でも、転んでケガをするのはどんな子でも一緒ですし、だったら私が走ってもいいんじゃないかと、とても不満に思ったんですね。しかもそれが、直接私にではなく、まず私の両親のほうに話があったことも、すごく悔しかった。自分のことなのに自分で決められないのか、って。

でも、幼い頃から両親をはじめとする周囲の人たちは、私がやりたいことにどんどん挑戦できる環境を作ってくれて、私の意思をどんな時も尊重してくれました。それは本当にありがたかったです。自分のやりたいこと、自分ができることを自分で人にきちんと伝えて、必要な協力をお願いする。そして、ここに至るまでにどれくらいの人が関わってくれたのかということを理解し、感謝の心を持つ。そのことの大切さを知ったことが、今の自分の土台となっています。それは、アスリートである以前に、人としてどうあるべきかということであり、私は自分があるべき姿を常に考えています。

True Moment in Sport

上地結衣

© IMG

11
2005

好奇心で進んでいった「挑戦」の日々

先天性の潜在性二分脊椎による下肢の麻痺により、成長とともに歩行が難しくなり、11歳の頃から車いすを使うようになりました。その頃、新しいことに挑戦することが大好きな私の性格を考えて、母が「今度こんなイベントがあるみたいだけど、行ってみる?」みたいな軽い感じで、スポーツを勧めてくれました。もともと私は好奇心旺盛なので、母の言葉をきっかけとして、様々なスポーツにチャレンジするようになりました。

車いすバスケでは、チームの人たちが体の小さい私を気づかい、ネットやリングにボールが当たったらシュートが入ったことにしてあげるといった、特別ルールを厚意で作ってくださいました。でも、自分としてはそれが逆にすごく悔しかった。学校行事でスキー合宿があった時も、他の人たちがやっているのに、自分だけやらないというのはどうしても嫌で、知り合いの紹介でチェアスキーに挑戦したりしました。どうせやるならみんなと同じ条件でやりたい、そうでないと納得がいかないという気持ちはすごく強かったですね。

小学校5年生でテニスを始めて、テニスがどんどん楽しくなっていったのですが、下手くそなところを人に見せたくない私は、大会に出場するつもりは全くありませんでした。そのうちに「地元の大会だから」と無理やり所属のクラブがエントリーをして、出場することになったんです。私は、大会で対戦するからにはこの人に勝ちたい、次はこの人に勝ちたいと、そんな気持ちで試合に臨むうちに、気がついたら14歳で初めて日本ランキング1位になっていました。優勝したいとか、日本一になりたいといった正直思ったことはなかったんです。ただ「この人に勝ちたい」を続けていくと、「みんなに勝ちたい」になって、その結果が日本一だったという感じで、チャンピオンとしての自覚はありませんでした。

特に大きな出会いを得たのが、ダブルスでエントリーしたものの年齢制限で出場できなかった14歳の時のジャパンオープンです。私の代わりにダブルスに出てくれたオーストラリアのダニエラ・ディトロという選手が、私が出場できず気持ちを整理できない時に、「今回あなたはすごく悔しい思いをしたかもしれないけど、その悔しさを忘れずにずっとプレーしていけば絶対に世界ランキング1位になれるわ。私にはそれが想像できる」と言葉をかけてくださったんです。ダニエラとは今でも交流が続いていますが、世界一も経験している選手だからこそ、私の気持ちを理解した言葉をいつもかけてくれる。アスリートとしてというより、人としてすごく尊敬できる方で、プレースタイルや人への接し方も私が目指しているものに近い。私の中でダニエラは一番の存在。テニスを通して自分は本当にすばらしい方々に巡り会ってきたと実感しています。

上地結衣

© Yuki Saito

自分で考え、自分で納得できる道を歩み続ける

18歳で経験した2012ロンドン・パラリンピックが、私自身の次なる大きなターニングポイントとなりました。実は、ロンドンでテニス人生を終わろうと思っていたんです。テニスをやるうえで一つの目標がパラリンピックに出場することだったので、もういいかな、と。

でも、実際にロンドンでパラリンピックに出場してみて、そこで見たパラリンピックの光景や、オリパラ関係なく観客がスポーツを純粋に楽しむ姿などから、改めて車いすテニスのすばらしさを感じました。私はシングルスもダブルスもベスト8止まりでしたが、納得できる試合をしての敗戦だったので、むしろ「もう少しやってみたら自分はどこまでいけるんだろう」という思いが湧き上がってきました。

ただ、それまではテニスも勉強もどちらも頑張ることが大前提だったこともあり、高校卒業後もテニスを続けるならば、何かと両立することだけは絶対にしたくなかった。だからこそ、コーチや両親、先生などたくさんの人に相談し、すごく時間をかけて考えました。そして、「やっぱりテニスを続けたい」と決断し、プロの道を選びました。

プロになってからは、単純に練習時間を増やすことができましたし、テニスのことを考える時間もすごく増えたことは大きかったと思います。とはいえ、形としてプロにはなりましたけど、正直なところ、20歳で初めて世界ランキング1位になる頃までは、プロとしての責任感はあまりありませんでした。ただ本当にテニスがやりたい、「この人に勝ちたい」の気持ちを持ち続けてきただけで、今考えると、よくそれで周りの人たちがスポンサードやサポートをしてくださったな、自分自身は本当に何も考えてなかったなと、反省しています。

世界ランキング1位になっても、自分の中では「私の実力ではまだ早い」と納得はできていませんでした。それまでは自分より前に必ず誰かがいたので、この人に勝てばと、とにかく強くなりたいというモチベーションでテニスを続けてこられたんですね。ところが、初めて自分の前に誰もいない状態になり、私を倒そうとして研究する選手たちも出てきて、どう自分のモチベーションを保ったらいいのか、分からなくなった。結局そこからまたランキングが落ちて、もう一度「この人に勝つ」という自分の前に倒すべき目標が現れた時に、ようやくプレーに専念できるようになりました。ですから、リオ・パラリンピックまでの時間は、ロンドンまでの間とは違った意味で、とても内容の濃い経験になったと思います。

上地結衣

© Yuki Saito

26
2020

ユースアスリートたちの国際交流の架け橋に

車いすテニスの競技歴も長くなりましたし、東京パラリンピックという大きな経験もあり、今後トップレベルの競技生活をやめたとしても完全に車いすテニスから離れることはないと思っています。特に、国内で車いすテニスや障がい者スポーツをやりたいという子たちに何ができるかなと考えるようになったので、引退した後も、テニスを通じていろいろな子たちの可能性を拡げることなどをしていきたいです。

ユースアスリートたちの国際交流はぜひ挑戦したいことです。私の海外の選手たちとのつながりを活かし、例えば日本のユースアスリートを自分の知り合いの海外の選手のテニスクラブや拠点に行かせて、代わりにその国のユースを交換留学のように日本に招待してみたい。今はまだ、日本の子たちが海外に行っても現地の選手との交流がなく、結局日本人だけでキャンプして、ただ海外に行っただけということが多いという現実があります。ホームステイとかトレーニングキャンプを通しても国際交流を経験させてあげたいと思っています。

最近、日本にジュニアのクラスができるほど、テニスをしたいという子が増えたのはすごくいいことだと感じますし、一緒にプレーができて、一緒に強くなっていけるというのはすごくうらやましい。でも、若い年齢の時に海外に目を向けられて、もっとお互いが行き来し刺激し合えれば、より多くの経験ができるんじゃないか、と。彼女らが大きな視野を持ち、自身で自分の進路を決められるんじゃないかなと思うんですね。ですから、日本を含め、さまざまな国の選手たちがお互いに行き来できるようなつながりをサポートしたいというのが、私の一つの目標です。

Truth in Me

上地結衣

© Yuki Saito

車いすテニスの楽しさが原動力

ロンドンでのパラリンピックが自分の初めてのパラリンピックですごく良かったと思っています。パラリンピックや障がい者のイメージを大きく変えて成功をおさめた大会だったと言われているだけに、その空気感や、開会式で自分がスタジアムに入場した時の歓声を肌で感じたことは今でも忘れられません。結果としては悔しい気持ちと達成感の両方が残りましたが、だからこそ、もう少しテニスを続けようと、次に向かうことができました。自分ができる限りのことをしてやり通さないと納得できないというところは、子どもの頃から変わっていません。

健常者と障がい者の競技では、どうしてもメディアでの取り上げられ方や一般的な認知度の違いがあります。目に触れる機会が少ない、お客さんが観たいと思っても障がい者のスポーツは観られないという状況が長く続いていました。そんな中、自分がいま世間から期待をしてもらっているということは、それだけ障がい者スポーツに注目して見てもらえるようになったということだと思いますし、もっと競技全体のことを知ってもらうために、私が結果を残さなくてはいけない。自分が結果を残すことでさらに注目が高まるのであれば、それはすごくありがたいことです。それは、プレッシャーよりもモチベーションになっています。

今、実際にパラアスリートがプロとして活動できているのは本当に一握りの状態です。だから、国枝慎吾さんや私たちが活躍することで、小さい子たちが、車いすテニスのプロスポーツ選手として、スポーツで生活をしていくという夢を持ってもらえたらいいなと思います。

もちろん国枝さんと私とでは全然レベルが違いますし、競技を始めた子たちにとっては、国枝さんは本当に憧れの存在。私は、みんなから見て「ここぐらいまでだったらいけるかな」という目標の位置、テニス会場に一緒にいる「お姉ちゃん」みたいな存在でありたいです。子どもたちにとっては、国枝さんのような素晴らしい選手と自分たちの間に私のような選手が一人いることで、段階的に身近な目標を感じられるはずです。

そのためには、やっぱり車いすテニスという競技がすごく楽しいものだということを伝えていきたいですし、何より私自身が、テニスを楽しむことを忘れたくないですね。リオの前に悩んだ時期も、結局は試合をすることでテニスの楽しさを再発見し、その楽しさが先へと進む原動力でした。スポーツの楽しさ、素晴らしさを私に見せてくれた両親や家族、先輩方、周囲の人たちへの感謝の気持ちを忘れることなく、次は私が子どもたちにそれを見せていってあげたいと思っています。

PLAY TRUE2020
Athlete Profile

Yui Kamiji 国籍

生年月日
1994年4月24日生まれ
国籍
日本
種目
車いすテニス

11歳で車いすテニスを始める。
14歳で日本ランキング1位、高校3年生でロンドン2012パラリンピックに出場し、シングルス、ダブルスともにベスト8進出。

2014年、全仏オープン、全米オープンで初優勝。同年5月に初めて世界ランキング1位に。2度目のパラリンピック出場となった2016リオデジャネイロ・パラリンピックでは、シングルスで銅メダルを獲得。

2018年10月に国枝慎吾選手とともに東京2020パラリンピックの代表に内定。